日記とか趣味とかサイトとかの話。
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不必要なんだが、この前不必要だと思って行動したら大失敗したので、とりあえず貰いに行ってきた
えー、まあ、大失敗がなければ上から7〜80%くらいの成績だったんではないでしょうかね、実際のところは90%くらいですけれども
まあ一科目分丸々無いんだからしょうがないよね、うん
その一科目分が関係無い、学部全体での成績では大体上から75%くらいだもんね
ぶ、文系は頑張ったもん!
哲学で95点取りましたもの、よくやった俺
もう一方は80点だったけど、まあしょうがない、思想が真逆すぎる
ただ英語が……超ギリギリ
救済無しの完全実力点数だったもんで、あと二問間違えてたら落としてた
あぶねえ……語学再履修は面倒臭い
あと不必要だけどお情けで二科目きてt(ry
化学とか絶対落としてると思ったのに……まあ物理は落としたけd(ry
花粉症だな……外に出たら鼻と喉がやられた
ティッシュを物凄い勢いで消費していく
そういえば、喫茶店で余ったティッシュはもう消化終わったね
ボックスティッシュ10箱以上あったのに……
あれ、カラオケとかできるの?
※16:23
哲学じゃない方の80点について言い訳をすると、提出日の翌日にNHKで丁度良い番組をやってました
それを見て書いてればもっと良い点数が取れたと思います!
全部載せると個人情報等の問題があったりするので部分カットで
「自分自身が存在する」ということは一体どういうことであろうか。具体的には、「わたしが存在する」ということはどういうことであろうか。この問いに対し、初めに全ての人間が経験する生と死の流れを追いつつ考察しようと思う。
自分自身の存在は、物理的には両親から誕生する。父の精子と母の卵子が受精し、受精卵が形成された後、母の子宮の中で成長し、産み落とされ、社会から誕生したと認知される。社会に認知される以前にも、母親のお腹を隆起させることで、或いはつわりという形で自己の存在を主張する。実際には、つわりが起きる以前から生命体としては存在しているのだが、それが認知されることはない。つまり、自己の存在が他者に認知されていない空白の期間が存在するということである。このとき、自己は生命体ではあるが、自身で何かを思考したり理解したりすることはできない。つまり、自分自身は生命体として存在しているが、理性や知能を持つ人間としては存在していないという状況にある。このとき自身は行為することができない。行為することはできないが、他者との関係は存在している。ここで存在する他者との関係は、母とへその緒で繋がっていることである。この関係を断たれることは、自分自身の死を意味する。母という存在を介してこの世に存在する自分自身は、へその緒を介した母との関係においてのみ存在する。私達は親を選択することはできない。同時に、親は子を選択できない。何故なら、親こそが私達を作り上げるからであり、その過程は不確実性を伴うからである。しかし、親は子を産むか産まないかの選択が可能である。この点において、親は選択が可能であるといえる。
このような閉じた世界に隔離された状態を経て、我々は産まれてくる。産まれるということは、母との物理的接続が断たれるということである。産まれたときからすぐに、私達は世界と直接接することとなる。しかし、すぐに選択や遭遇を自身で行うことはできない。それができるようになるまでは、主に家族という存在を介して世界と接する。このときまでは、自分自身が存在するということについて、当人の立場においては何の答えも無い。全ての生物は生きるという欲求を本能として少なからず持っているだろうが、それと同じことで、生きるという行為に対し、哲学的思考のような論理的な意図を決して持つことなく、ただ “なんとなく”生きるだけである。しかし、他者の立場にたってみれば、自己は良い方向へ進むにしろ、悪い方向へ進むにしろ、大きな事故や病気が無ければ高い確率で大きく成長をする原石のようなものである。自己を自身で上手く認識できないときにも、他者が自己の存在を認識し、規定する。
自身で動き回れるようになると、自身による選択が可能となる。勿論、動き回れなくとも、例えば周りに与えられる玩具を好みで選択することは可能であるが、そこには、自己に与えられる玩具を選択している他者の意思が介在する。動き回れるようになって初めて、自分自身による真の選択が可能となる。厳密にいえば、最初は家族によって整理された部屋内でしか活動できないだろう。しかし、明確に他者から与えられたものを選択するだけではなくなる。そのとき、他者から見て、自己が受け入れるか受け入れぬかの二択の可能性しか持たない存在から、どんな行動をするか分からない、無数の可能性を秘めた存在へと変貌する。このときになって初めて、自己の選択と他者との関わりが繋がる。それまでの他者の関わりにおいて、自己の選択はほとんど存在しない。自己の選択が他者との関係が繋がるということは、自己が明確に他者へ影響を与えるということである。自己が自身の意思で他者へ影響を与えるとき、それは則ち自己が、他の誰とも違っているということを示すことであり、また同時に、それを他者が認知することではないだろうか。そのときになって初めて、自身でこの世に存在するといえるようになるのではないか。尤も、そのような認識を実際に持てるかどうかはまた別の話ではある。(※)私が他者との関わりを哲学的に明確に意識し出したのは中学三年から高校生の頃であった。そのときに私は次のような例を考えた。
私は小学生の頃から、割と人生に悲観的だった。その為に、上記のような、善とも悪ともつかないが、確実に正しいと言える自己と他者との関係の存在を認めることで、自分自身の存在を肯定しようとしたのだろう。それが結果的に、哲学的な思索の最初となったように思う。
以上のような例を考えた頃、一本の短編小説を書いた。その短編小説で、私は次のようなことを書いた。
死が他者との関係を断つことと、自己が他者に影響を与え、また同時に他者に影響されて生きていることを、この頃の私は感じていたのだろう。特に死というものは強く意識していたので、死が及ぼす影響というものについては良く考えていた。“残す”という表現からも、私が死に対して余り否定的でないような印象を受けるのではないか。
自己の死とは別に、他者の死との遭遇というものが存在する。私は身近なところでその経験を持っている。幼い頃に、肝臓の病気で妹を亡くした。幼稚園に入っているかいないかくらいの頃だったはずであるが、幼かった為に、ほとんど記憶に残っていない。妹という存在は確かにあったのだが、覚えていることは精々三つである。妹は私に何らかの影響を及ぼしたかもしれないが、私はそれを覚えていない。私が妹の影響として無意識の内に取り込んでいる何かはあるかもしれない。しかし、それ以外にも、妹がいたということ、その妹が死んだという結果が、妹という存在が選択した行為によってではなく存在し、またその結果が後々になって、私に何かしらの影響を与えているといえる。私の死生観は、もしかしたら早すぎる妹の死によって形成されたのかもしれない。
幼稚園、小学校と学年が上がるにつれ、自分自身の選択できる幅は広がってゆく。それと同時に、接する他者の存在も飛躍的に増える。家族でも親族でもない、全く血の繋がっていない他者との関わりは、大体幼稚園に入る前の頃から少しずつ始まるが、よほど田舎で無い限りは、幼稚園か小学校、或いは保育園で初めて大人数と接することになるだろう。基本的に、ここで出会う人間について自分自身の選択は無いといえる。仮に小学校受験をするとしても、その学校を決めるのは親だろうし、受験しない場合は、住んでいる場所によって学校が決まるので、住む場所を決めた親によって通う学校、つまり接する人間が決定される。しかし、大人数の中に入るということは、その中から付き合う人間を選択することができるということである。先に述べた通り、人間は他者に影響を与え、影響される存在であるから、自身の選択によって誰かと友達になった場合、相手と自己、双方に大きな影響が生じる。勿論、友達という繋がりをとらなくても、影響を与えたり影響されたりすることは多々ある。しかし、友達や親友、及びそれに類するような繋がりは密接な関係である為、その影響は大きい。また、親や親族と違って数に制限は無いし、家で過ごす時間が減って外で過ごす時間が増えていくこともあり、益々影響は大きくなる。それによって、自己の多様性は格段に高まる。この多様性の中に、今現在の私に繋がる一つの道が存在する。
小学校から中学校へ上がるときに、大きな選択の余地が現れる。中学受験である。自分で考えて学校を選択して受験する者がいれば、高校受験に先延ばしする者もいるし、親の決めた学校を目指す者もいる。更に、試験という関門によって、希望した学校に入れたり入れなかったりという結果が生じる。(削除。内容は私の受験履歴)自分に与えられた能力、或いは努力して身に付けた能力、親の財力、選択し、或いは選択された塾等の勉強方法、時の運等によって選択肢が絞り込まれ、また決定するこの選択は、12歳が経験する選択としては間違いなく最大規模である。この選択、或いは遭遇によって、受けられる教育や、級友をも選択していることになる。勿論、級友を見て選ぶようなことはできないが、遭遇の可能性の選択をしているといえる。
人生最初の非常に大きな選択を終え六年後、高校受験者の場合は三年後に、大学受験が行われる。ここまで来ると、ほとんどの人がほとんどのことを自身で選択する、或いはできるようになっている。私はといえば、正直にいえば人文の哲学科、もしくは政治学科に行きたかった。ただ、そう思ったのが高三の時期であったこと、二、三歳の頃に足し算引き算を従姉に教えられてからずっと理系として十数年歩んできたこと、哲学科や政治学科に行った後の未来を想像できなかったこと、親の反対等を理由として、結局この(削除)大学の工学部に進学するに至った。理系としてこの大学は、自分の力量や親の経済力を鑑みても第一志望であったし、ここに入れたことは良かったが、文系を擁する総合大学を目指すべきだったのではないかと今では思っている。
大学受験の際のセンター試験において、私は社会科目では倫理を選択した。倫理の勉強をする際、私の知らない様々な思想に触れた。未だ教科書で表面的になぞっただけでしかないが、その中で気に入ったのは、ソクラテスとベンサムである。これから私はソクラテスの弁明を読もうと思っている。倫理を選択し、ソクラテスやベンサム達に巡り会い、本を与えられ、私という存在の今の状態がどのように変化していくかは分からないが、偉大なる哲学者達の思想に触れて影響され、その影響を周りに広めることだろう。その行為全てが私の存在を規定し、また周りの存在の規定の一部となる。その周りとは人間だけにとどまらない。地球上という、今や完全ではなくなってしまったが、閉鎖された空間に無数の生物が存在する。人間と動物の間においても、行為と影響の関係は存在する。人が今のまま自然を破壊し、人口を爆発的に増加させれば、水も食料も土地も不足し、動植物は減少するだろう。それが行き過ぎれば、自浄作用のように理として人間は数を減らし、動植物は数を増やすだろう。ミクロな視点で個人の幸せを追うことだけでは、決して全体の幸福は得られない。それは、自己の及ぼす影響というものが、それぞれ大小はあるものの、決して小さいものではないし、それらが結束すれば非常に大きなものとなるからだ。人間は知恵を持ち、化学技術を手にした。それはつまり、マクロな視点を持ちうるということである。自分自身の存在は、巡り巡って自分の目の届かないところにも影響する。自分自身の存在は自己だけのものではない。無数の生物と、無数の物と、無数のネットワークで繋がっている。それら全てが、自分自身の存在の価値であり、存在する意義でもある。
※:この部分から内容が転換していくが、それは知人のレポートを読んで、課題文の解釈を間違えているのではないかという恐怖を覚えたからである。
えー、まあ、大失敗がなければ上から7〜80%くらいの成績だったんではないでしょうかね、実際のところは90%くらいですけれども
まあ一科目分丸々無いんだからしょうがないよね、うん
その一科目分が関係無い、学部全体での成績では大体上から75%くらいだもんね
ぶ、文系は頑張ったもん!
哲学で95点取りましたもの、よくやった俺
もう一方は80点だったけど、まあしょうがない、思想が真逆すぎる
ただ英語が……超ギリギリ
救済無しの完全実力点数だったもんで、あと二問間違えてたら落としてた
あぶねえ……語学再履修は面倒臭い
あと不必要だけどお情けで二科目きてt(ry
化学とか絶対落としてると思ったのに……まあ物理は落としたけd(ry
花粉症だな……外に出たら鼻と喉がやられた
ティッシュを物凄い勢いで消費していく
そういえば、喫茶店で余ったティッシュはもう消化終わったね
ボックスティッシュ10箱以上あったのに……
あれ、カラオケとかできるの?
※16:23
哲学じゃない方の80点について言い訳をすると、提出日の翌日にNHKで丁度良い番組をやってました
それを見て書いてればもっと良い点数が取れたと思います!
全部載せると個人情報等の問題があったりするので部分カットで
「自分自身が存在する」ということは一体どういうことであろうか。具体的には、「わたしが存在する」ということはどういうことであろうか。この問いに対し、初めに全ての人間が経験する生と死の流れを追いつつ考察しようと思う。
自分自身の存在は、物理的には両親から誕生する。父の精子と母の卵子が受精し、受精卵が形成された後、母の子宮の中で成長し、産み落とされ、社会から誕生したと認知される。社会に認知される以前にも、母親のお腹を隆起させることで、或いはつわりという形で自己の存在を主張する。実際には、つわりが起きる以前から生命体としては存在しているのだが、それが認知されることはない。つまり、自己の存在が他者に認知されていない空白の期間が存在するということである。このとき、自己は生命体ではあるが、自身で何かを思考したり理解したりすることはできない。つまり、自分自身は生命体として存在しているが、理性や知能を持つ人間としては存在していないという状況にある。このとき自身は行為することができない。行為することはできないが、他者との関係は存在している。ここで存在する他者との関係は、母とへその緒で繋がっていることである。この関係を断たれることは、自分自身の死を意味する。母という存在を介してこの世に存在する自分自身は、へその緒を介した母との関係においてのみ存在する。私達は親を選択することはできない。同時に、親は子を選択できない。何故なら、親こそが私達を作り上げるからであり、その過程は不確実性を伴うからである。しかし、親は子を産むか産まないかの選択が可能である。この点において、親は選択が可能であるといえる。
このような閉じた世界に隔離された状態を経て、我々は産まれてくる。産まれるということは、母との物理的接続が断たれるということである。産まれたときからすぐに、私達は世界と直接接することとなる。しかし、すぐに選択や遭遇を自身で行うことはできない。それができるようになるまでは、主に家族という存在を介して世界と接する。このときまでは、自分自身が存在するということについて、当人の立場においては何の答えも無い。全ての生物は生きるという欲求を本能として少なからず持っているだろうが、それと同じことで、生きるという行為に対し、哲学的思考のような論理的な意図を決して持つことなく、ただ “なんとなく”生きるだけである。しかし、他者の立場にたってみれば、自己は良い方向へ進むにしろ、悪い方向へ進むにしろ、大きな事故や病気が無ければ高い確率で大きく成長をする原石のようなものである。自己を自身で上手く認識できないときにも、他者が自己の存在を認識し、規定する。
自身で動き回れるようになると、自身による選択が可能となる。勿論、動き回れなくとも、例えば周りに与えられる玩具を好みで選択することは可能であるが、そこには、自己に与えられる玩具を選択している他者の意思が介在する。動き回れるようになって初めて、自分自身による真の選択が可能となる。厳密にいえば、最初は家族によって整理された部屋内でしか活動できないだろう。しかし、明確に他者から与えられたものを選択するだけではなくなる。そのとき、他者から見て、自己が受け入れるか受け入れぬかの二択の可能性しか持たない存在から、どんな行動をするか分からない、無数の可能性を秘めた存在へと変貌する。このときになって初めて、自己の選択と他者との関わりが繋がる。それまでの他者の関わりにおいて、自己の選択はほとんど存在しない。自己の選択が他者との関係が繋がるということは、自己が明確に他者へ影響を与えるということである。自己が自身の意思で他者へ影響を与えるとき、それは則ち自己が、他の誰とも違っているということを示すことであり、また同時に、それを他者が認知することではないだろうか。そのときになって初めて、自身でこの世に存在するといえるようになるのではないか。尤も、そのような認識を実際に持てるかどうかはまた別の話ではある。(※)私が他者との関わりを哲学的に明確に意識し出したのは中学三年から高校生の頃であった。そのときに私は次のような例を考えた。
道に一個の石が落ちていたとする。その石を私が蹴り飛ばしたとする。この蹴り飛ばすという行為によって、今後この道を通る人が見る景色において、石の場所は変化した。それと同時に、今後この道を通る人が石を避けて歩いたり、或いは踏んづけて転んでしまったりするという可能性も変化した。細かく言えば、蹴り飛ばされることによって石が削れたり、石の風化の仕方が変わったり、石付近の風の流れ方が変わったりもする。つまり、例えわずかなことであっても、私の行為は何かしらの影響を周りに残しているといえる。
私は小学生の頃から、割と人生に悲観的だった。その為に、上記のような、善とも悪ともつかないが、確実に正しいと言える自己と他者との関係の存在を認めることで、自分自身の存在を肯定しようとしたのだろう。それが結果的に、哲学的な思索の最初となったように思う。
以上のような例を考えた頃、一本の短編小説を書いた。その短編小説で、私は次のようなことを書いた。
(削除)
死が他者との関係を断つことと、自己が他者に影響を与え、また同時に他者に影響されて生きていることを、この頃の私は感じていたのだろう。特に死というものは強く意識していたので、死が及ぼす影響というものについては良く考えていた。“残す”という表現からも、私が死に対して余り否定的でないような印象を受けるのではないか。
自己の死とは別に、他者の死との遭遇というものが存在する。私は身近なところでその経験を持っている。幼い頃に、肝臓の病気で妹を亡くした。幼稚園に入っているかいないかくらいの頃だったはずであるが、幼かった為に、ほとんど記憶に残っていない。妹という存在は確かにあったのだが、覚えていることは精々三つである。妹は私に何らかの影響を及ぼしたかもしれないが、私はそれを覚えていない。私が妹の影響として無意識の内に取り込んでいる何かはあるかもしれない。しかし、それ以外にも、妹がいたということ、その妹が死んだという結果が、妹という存在が選択した行為によってではなく存在し、またその結果が後々になって、私に何かしらの影響を与えているといえる。私の死生観は、もしかしたら早すぎる妹の死によって形成されたのかもしれない。
幼稚園、小学校と学年が上がるにつれ、自分自身の選択できる幅は広がってゆく。それと同時に、接する他者の存在も飛躍的に増える。家族でも親族でもない、全く血の繋がっていない他者との関わりは、大体幼稚園に入る前の頃から少しずつ始まるが、よほど田舎で無い限りは、幼稚園か小学校、或いは保育園で初めて大人数と接することになるだろう。基本的に、ここで出会う人間について自分自身の選択は無いといえる。仮に小学校受験をするとしても、その学校を決めるのは親だろうし、受験しない場合は、住んでいる場所によって学校が決まるので、住む場所を決めた親によって通う学校、つまり接する人間が決定される。しかし、大人数の中に入るということは、その中から付き合う人間を選択することができるということである。先に述べた通り、人間は他者に影響を与え、影響される存在であるから、自身の選択によって誰かと友達になった場合、相手と自己、双方に大きな影響が生じる。勿論、友達という繋がりをとらなくても、影響を与えたり影響されたりすることは多々ある。しかし、友達や親友、及びそれに類するような繋がりは密接な関係である為、その影響は大きい。また、親や親族と違って数に制限は無いし、家で過ごす時間が減って外で過ごす時間が増えていくこともあり、益々影響は大きくなる。それによって、自己の多様性は格段に高まる。この多様性の中に、今現在の私に繋がる一つの道が存在する。
小学校から中学校へ上がるときに、大きな選択の余地が現れる。中学受験である。自分で考えて学校を選択して受験する者がいれば、高校受験に先延ばしする者もいるし、親の決めた学校を目指す者もいる。更に、試験という関門によって、希望した学校に入れたり入れなかったりという結果が生じる。(削除。内容は私の受験履歴)自分に与えられた能力、或いは努力して身に付けた能力、親の財力、選択し、或いは選択された塾等の勉強方法、時の運等によって選択肢が絞り込まれ、また決定するこの選択は、12歳が経験する選択としては間違いなく最大規模である。この選択、或いは遭遇によって、受けられる教育や、級友をも選択していることになる。勿論、級友を見て選ぶようなことはできないが、遭遇の可能性の選択をしているといえる。
人生最初の非常に大きな選択を終え六年後、高校受験者の場合は三年後に、大学受験が行われる。ここまで来ると、ほとんどの人がほとんどのことを自身で選択する、或いはできるようになっている。私はといえば、正直にいえば人文の哲学科、もしくは政治学科に行きたかった。ただ、そう思ったのが高三の時期であったこと、二、三歳の頃に足し算引き算を従姉に教えられてからずっと理系として十数年歩んできたこと、哲学科や政治学科に行った後の未来を想像できなかったこと、親の反対等を理由として、結局この(削除)大学の工学部に進学するに至った。理系としてこの大学は、自分の力量や親の経済力を鑑みても第一志望であったし、ここに入れたことは良かったが、文系を擁する総合大学を目指すべきだったのではないかと今では思っている。
大学受験の際のセンター試験において、私は社会科目では倫理を選択した。倫理の勉強をする際、私の知らない様々な思想に触れた。未だ教科書で表面的になぞっただけでしかないが、その中で気に入ったのは、ソクラテスとベンサムである。これから私はソクラテスの弁明を読もうと思っている。倫理を選択し、ソクラテスやベンサム達に巡り会い、本を与えられ、私という存在の今の状態がどのように変化していくかは分からないが、偉大なる哲学者達の思想に触れて影響され、その影響を周りに広めることだろう。その行為全てが私の存在を規定し、また周りの存在の規定の一部となる。その周りとは人間だけにとどまらない。地球上という、今や完全ではなくなってしまったが、閉鎖された空間に無数の生物が存在する。人間と動物の間においても、行為と影響の関係は存在する。人が今のまま自然を破壊し、人口を爆発的に増加させれば、水も食料も土地も不足し、動植物は減少するだろう。それが行き過ぎれば、自浄作用のように理として人間は数を減らし、動植物は数を増やすだろう。ミクロな視点で個人の幸せを追うことだけでは、決して全体の幸福は得られない。それは、自己の及ぼす影響というものが、それぞれ大小はあるものの、決して小さいものではないし、それらが結束すれば非常に大きなものとなるからだ。人間は知恵を持ち、化学技術を手にした。それはつまり、マクロな視点を持ちうるということである。自分自身の存在は、巡り巡って自分の目の届かないところにも影響する。自分自身の存在は自己だけのものではない。無数の生物と、無数の物と、無数のネットワークで繋がっている。それら全てが、自分自身の存在の価値であり、存在する意義でもある。
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HN:
寿限無(以下略)
年齢:
35
性別:
男性
誕生日:
1989/09/26
職業:
学生
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